物質を構成する最小の単位を素粒子と呼ぶと、この世界(宇宙)は素粒子から構成されており、私達人間という個体も、流動する素粒子の集合体となります。
しかし、素粒子が集まって直接人間を構成するのではありません。
まず、細胞という生物単位としてまとまります。1つの細胞は生存活動の為に、約100以上のミトコンドリアという生物を取り込み、共生しています。
ミトコンドリアは、空気中の酸素と細胞からの栄養素でエネルギー源を産出し、二酸化炭素と排泄物を出しています。
私達は、自分が生きるために呼吸し、食事をして排泄すると感じています。
自分の為にミトコンドリアという器官が機能していると思っています。しかし、私達はミトコンドリアに指示できるのでしょうか?実は、私という個体ベースで、まとめて酸素を吸い二酸化炭素を吐くのは、37兆個の細胞と3700兆個以上のミトコンドリアという多数の生物が効率的に生存するために好都合なのです。そのために、人体という共同機能体が作り上げられたと考えるのが自然です。
腸内細菌
私達は、食べ物の消化を助けるために100兆個の腸内細菌が生存していると思っていますが、腸内細菌が効率的に栄養を摂取するために、人間の身体機能を活用しているだけなのです。
個体レベルの人間は他の動物と同様に植物を食べます(植物を食べる動物を食べることもあります)。植物は太陽エネルギーと動物が吐き出した二酸化炭素によって光合成を行い酸素を作り出しています。動物は、この酸素を呼吸で取り込み、動物の排泄物は植物の肥料になります(現代では、化学肥料なるものが登場しているようですが)。これらの動植物の営みが地球の大気圏を形成し、雨を降らせ、海を作り、山を削り川を形成します。マグマが山を隆起させます。このような地球の循環活動は、恐らく太陽をはじめ宇宙のエネルギーに依るものでしょう。
おそらく宇宙の中で、素粒子は様々に集合体を構成しては分散しながら流動しているのです。宇宙とは永遠に循環する素粒子の流動であり、ただ、始まりも終わりもわからないエネルギーによる生命活動なのです(エネルギー保存の法則)。すると、宇宙の生命活動の小さな小さな仮の要素に過ぎない「人間」を一つの固定的な存在として区分けして、世界の中心のように考えるのは、私達の「錯覚」なのではないでしょうか?
禅の修行を経た世界的な言語学者であった井筒俊彦は、この「錯覚」の成立の為に「言語」というものが、いかに大きな働きを持っているのかに着目しました。言語の働きを掘り下げて、私達の表層意識が言葉を使って考える「世間」とは何か、言葉の無い深層意識レベルで捉える「世界」とは何か、を明らかにしようと試みています。
宇宙の生命活動は、素粒子を様々に組み合わせて世界を創造していくエネルギーでもあります。素粒子が組み合わされた世界を具体的に映像として可視化し、時系列的に整理する機能が人間には与えられています。眼・耳などの感覚や意識といった見聞覚知機能です。ただ、宇宙のエネルギーに依り流動する素粒子が私達の眼や耳にぶつかるという純粋経験(あれこれ解釈する前のありのままの経験)が発生してから、経験的自我がそれぞれに世界を認識するまでには若干のタイムラグがあります。
深層意識レベルと表層意識レベル
純粋経験の段階を深層意識レベルとし、経験的自我の認識段階を表層意識レベルとすると、深層意識レベルでは、山も川も海もすべて連続した塊として存在しているにすぎないのに、私達の表層意識が適当に輪郭の線を加え、これは山だ、これは川だと名前を付けていくことで、経験的自我としての「私達」の「物語」によって「世間」が構成されていくのです。そこでは、人間関係や老病死は実在するものとされ、私達は苦しみから逃れることはできません。しかし、宇宙のエネルギーは既に深層意識レベルで人間の眼や耳などの見聞覚知機能を使いこなして、流動する素粒子の塊に過ぎない様々な事物をありのままの状態で把握しています(純粋経験)。言葉の無い純粋経験をそのまま捉えておくことができれば、ひょっとしたら、宇宙と自分との一体感が沸き起こるのかもしれません。
まとめ
表層意識の底の深層意識レベルで宇宙のエネルギーが働いているのだとすれば、人間は皆、心の底で繋がっており、世界は調和しているはずなのです。
(初出:ぎょうせい:月刊「税」6月号)