
近代における科学の進歩は、宗教について科学的根拠に乏しい迷信であると見做すようになってきました。「神は死んだ」のです。
ところが、アインシュタインは、「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」という言葉を残しました。
宗教哲理との整合性

近年になって、宇宙の仕組みの解明が進むにつれ、宗教哲理との整合性が明らかになりつつあります。例えば、宇宙の物質は電子のエネルギーの流れによって流動しており「諸行無常」だったのです。
刑法では、人の死について、脳死説とか、心臓停止説とかが議論されます。
私も、脳や心臓が生命そのものだと思っていました。でも、脳も心臓も臓器です。
いわば道具です。私達の心や身体を道具として動かしているものがあるはずです。
宇宙のエネルギーが生命エネルギーとして私達に作用しているのではないでしょうか。
生命エネルギー

実際、自分の思い出の記憶を辿っても幼稚園の頃までしか遡れません。
乳児の頃とか、恐らく自分という意識は無かったと思います。でも、私は生きていたのです。
生命エネルギーはあったのです。
私が先に存在して生命エネルギーを支配している訳ではなさそうです。
では、両親が生命エネルギーを付与してくれたのでしょうか?
両親も生命エネルギーによって生きていたのでしょうから、生命エネルギーを自由にすることはできなかったでしょう。すると、生命エネルギーは両親より前から存在していて、生命エネルギーと両親との新たな出会いが、私という人間を生み出したのだと思われます。
禅には「父母未生以前の本来の面目」という言葉があります。私という存在の根源は生命エネルギー(=本来の面目)であり、私の心や身体は、生命エネルギーと両親の出会いによって発生した宇宙の中の一つの現象であるという教えではないかと思われます。生かされている、という言葉の意味も少し納得できるように感じます。
宇宙の物質の99%以上は、プロトン(+の電荷)と電子(-の電荷)に分離したプラズマ状態です。宇宙の根本は「陰陽の原理」に依っているようです。プロトンが電子と結びつき水素原子となると、恒星の誕生に繋がります。太陽などの恒星はエネルギーを宇宙に放出しながら、自身の形状を維持します。いわば、星も呼吸をしているわけです。やがて呼吸できなくなると、爆発してしまいます。爆発した星のかけらの中の炭素などから有機物が形成され、生物、動植物、人類、そして私達現生人類も登場します。私達も呼吸をしながらエネルギーを作り宇宙に放出しつつ、形状を維持しているにすぎません。形状を維持できなくなることを「死」と呼び、終わりのように思っていますが、宇宙の仕組みからすると、「死」こそ常態なのです。生命は一時的「現象」に過ぎないのですが、この「現象」は奇跡的なことでもあります。
私達に関する生命エネルギーは生まれる前から生存中も死後も変わらず存在するのですが、「生命エネルギーを感じて生きること」が古来目指されてきました。
宇宙エネルギーの作用

達磨大師から六代目、唐代初めの恵能大師に一つの伝説があります。
ある寺に来ると、修行僧たちが風に揺らぐ旗を見て、「旗が動いている」のか「風が動いている」のかで争っていました。すると、恵能大師は、「旗が動いているのでも、風が動いているのでもない。君たちの心が自分で動いているのだ」と喝破したのです。「心」と呼ばれる作用にも二種類のものがあるようです。過去の記憶や本能などに照らして反応する身体に由来する心の作用と、宇宙のエネルギーが直接私達に心として作用するものです。宇宙のエネルギーの作用に任せて生きることができれば、人間社会の争いや妬み、怒りなどの感情からも解放され、至福とされたのです。
日本に禅を伝えた栄西禅師の「興禅護国論」に、「大なるかな心や 天の高き極むべからず 而(しか)るに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず 而るに心は地の下に出づ」という言葉があります。
私達に作用する宇宙エネルギーを「心」と言っているのだと思います。
野口晴哉の「治療の書」に、「宇宙動きて我動く也。我が動くも是宇宙の動き也」「自分無く自然無く 息一つになること也」という言葉が治療の極意として語られています。宇宙の物質が電子エネルギーにより流動し、星も私達も呼吸をしながら一時的に存在していることなどが現代科学により明らかにされるにつれ、過去の宗教哲理が科学的合理性を有して再生してくるのです。
(初出:ぎょうせい月刊「税」11月号)






