
父が八十を過ぎた頃だったでしょうか。
酔って足を絡ませ廊下に倒れこんだまま、「こんな人生は認めん」と呟いたのです。
今となっては確かめようもありませんが、何か深く思うところがあったのかもしれません。
衝撃とともに、私には大きな教えになりました。
過去の悔恨

年齢を重ねても、過去の悔恨はやっかいです。
思い返す毎に記憶が勝手に膨らみ、暴れまわります。「何であんなことをしたんだ」と自分を責めても、誰も赦してくれません。健康を害す原因にもなり得ますし、不機嫌は周りの人達をも苦しめます。
一方、人生百年時代、老後に夢をと言われます。しかし、長い老後を想像すると、健康を害して寝たきりになったらどうするのだ、老後資金は大丈夫なのかなど、もれなく多くの不安も湧き上がり、止まらなくなります。しかし、平均寿命の延伸は統計数字に過ぎないのです。確かなことは、私は一度死ぬということであり、明日命尽きるかもしれないのです。どうしようもないことをあれこれ想像して不安になることはやめましょう。
過去の悔恨や今後の不安というものは、想像力の暴走(妄想)に過ぎません。過去の言動を反省しながらも、今を生きるためには、過去の自分を赦すしかありません。これからの老後、何が起こるかわかりませんが、何が起ころうと、これまで生きてきた自分を信じるしかありません。仮に不安が現実化した時はもう不安ではないのです。これまでも思い通りにならない日々を乗り切ってきたではありませんか。
過去の悔恨や今後の不安は、どこからともなく湧いてきます。ただ、仕事でも、趣味でも、掃除でも、靴磨きでも、何かに取り組んでいる「今」には、あまり湧いてこないようです。
まとめ
暇であること、特に「退屈」は「妄想の温床」になりがちなので、注意が必要です。
「今日、用事があること」(きょうよう問題)、「今日、行くところがあること」(きょういく問題)が、高齢時代において重要であると強調される所以です。
(初出:ぎょうせい月刊「税」12月号)






