
過日、不覚にも剣道の稽古中、気を失う経験をしました。
どこも痛めていなかったようなので、意識が戻ると、何も思わず、何も考えずに、ただ眼に映る景色や耳元で「大丈夫?」と心配してくれる声などが、ただ流れていきました。不思議なことに幸せを感じました。やがて、意識が状況を徐々に判断していきました。私は、この段階で判断を取捨選択しようと試みました。気を失った要因については、身体の動きをフォローし、今後、気を付けるべきポイントを整理するだけにしました。誰かに原因を求めようとするような意識も湧いてきましたが、今後も楽しく暮らすためには不要なことなので、除外することができました。
意識の反射現象

貴重な経験でした。
まず、見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味わったり、皮膚に触れたりする五感の感覚が生じた後に、それらを意識が再構成して、過去の経験や知識に照らしながら、状況判断するプロセスを図らずも体験できたのです。この「意識」という奴は、曲者だなあ、と感じました。頼んでもいないのに、勝手に過去の記憶の束に照らして、感情を発生させようとするのです。今まで、このような意識の働きをそのまま「私の心」として受け入れていたことに気付きました。危ない、危ない。
さて、中国の唐の時代。瑞巌寺の師彦(しげん)和尚は、毎日自分で「主人公!」と呼んで、自分で「ハイ!」と応じ、「人に騙されるな」「ハイハイ」と、一人問答を繰り返していた、という逸話が「無門関」という禅の公案集に載っています。
何に「騙されるな!」と言われていたのでしょうか。過日の経験から、私は、感情や情念など、反射的に発生する意識とその身体の反応に騙されるな、ということだったのでは?と思いました。
思い通りにならないことへの怒りも、根底には、利益だとか、手柄を立てたいとかの我欲がある場合が多いのですが、現象としては、胸を締め付けるような苦痛として現れます。
剣道の試合や昇段審査も、負けたら嫌だとか、落ちたら嫌だとかの気持ちの奥に、そうなったら恥ずかしいなあという、他人の眼を気にする過去の癖があったりしますが、現象としては、胸の動悸として現れます。
これらは、眼や耳などの五感から把握した感覚を過去の記憶の束に照らし合わせて機械的に反応している意識の反射現象に過ぎないのであって、決して「私の心」ではないのです。そこを師彦和尚は「騙されるな!」と教えられたのではないでしょうか。
感情や情念を消すことは難しいことです。ただ、胸が締め付けられるとか、胸がどきどきするとかの身体的現象に着目し、新たな身体運動によって打ち消そうとする方法もあるようです。怒鳴る前に深呼吸をしたら怒りが収まったとか、稽古していると悩みを忘れていたとかの経験は皆さんにもあるのではないですか?審査前に緊張を解すため、素振りを行うなど、多くの人が実践しています。ラグビーの五郎丸選手や野球のイチロー選手などで有名になった「ルーティン」という一連の決まった事前動作にも、そのような意義があるのかもしれません。沸き起こる感情を意志の力で圧することは難しいのですが、筋肉は意志の通り動いてくれますものね。

では、そのような感情や情念が湧いてこないようにはできないのでしょうか。
私は、過日において意識が戻った時の幸福な感じが忘れられません。「何も考えるな」「二念を継ぐな」という教えはありましたが、それらは修行の手段だと思っていました。しかし「何も考えていない状態」こそ、実は幸せなのかもしれません。
先日、神社でお参りをして、少しヒントを得ました。今まで、様々なお願いを神社にしてきましたが、そうそう叶うものではありません。当たり前ですね。皆の願いは相互に矛盾するので、そんな願いが叶うことはありませんよね。ところが、先日は、日々健康に暮らせていることを感謝し、全てをお任せできたのです。何も考えずに。めくるめく世の中で、良いこと、悪いことが繰り返され、常に反転していることに、遅ればせながら少し気が付いたということもあったのだと思います。するとフッと楽になりました。お参りをする、お祈りをする、というのは全てをお任せして何も考えないという状態になれることかも、と感じました。
まとめ
とは言え、俗世を送る中で、常に、何も考えない、何もしない、という訳にはいきませんよね。師彦和尚の言う「主人公」とは何か、という大きなお題にも関係します。引き続きお付き合いいただければ幸いです。
(初出:ぎょうせい月刊「税」12月号)






