
師彦(しげん)和尚の言った「主人公」とは何かを探るにあたり、「われ思う、故にわれ在り(コギト・エルゴ・スム)」というデカルトの有名な命題に言う「われ」とは何かを、その著「方法序説」(1637年出版)から探る作業から始めます。
フランス貴族の子弟であったデカルトは勉学に努め、ヨーロッパで最も有名な学校で学び成績も優等であったようです。しかし、真摯に真理を追究しようとするデカルトは、重大な決断を下します。
まず、文字による学問を全て放棄しました。一つの真理に対して多くの学説が併存することへの懐疑でした。前例と習慣だけで納得してきたことを疑い、教師たちへの従属から解放される必要を感じたのです。真理については賛成の数が多いといっても何一つ価値ある証拠にはなりません。生来与えられているであろう「良識(理性)」を信じ、自分で自分を導いていかざるを得ないと考えたのです。
全生涯をかけて自分の理性を培い、できうる限り真理の認識に前進していくために、デカルトは自分の思想以外への執着を脱ぎ捨てました。自分の力が及ばない物事に対する執着は、運命の悪戯による翻弄をもたらします。自分の思想を絶対的に自由に統御することこそ、自由で幸福な人生をもたらすものなのです。
さらに、デカルトは眼や耳などの感覚がいかに私達を欺くかを強調し、感覚が想像させるとおりのものは存在しないと想定しました。イメージを思い浮かべて考える習慣は物質的事物に特有の思考方法であり、悲しみや変わりやすい心なども感覚的で物体に属する観念であると見做しました。
このようにして、どんな身体も無い、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いと仮想することができました。ただ、すべてを偽りであると考えている間も、そう考えている私が存在していることは否定できません。物質としての身体が無くとも、存在するためにどんな場所も要しない、「考えること」だけを本質とする「私」が存在するのです。
「身体」とは

では、一般に自分だと思っている「身体」とは何でしょうか?長い進化の歴史の過程の中で、様々な機能を有することとなった「身体」は、基本的には動物のそれと変わることのない、自動機械のようなものです。感情なども自然の動作の一つであって、動物にも存在するようです。
人間と動物の違いは何か?理性的魂が身体と結合し、緊密に一体となったもの、それが「人間」だとデカルトは言います。人間には、「魂」「理性」「良識」といった精神的人間の要素と動物としての物質的人間の要素があることになります。デカルトにとっての「われ」とは、精神的人間の要素である「魂」でした。それは物質的な身体に依存することなく実在するので、「魂」は不滅であると結論付けたのです。
師彦和尚の言う「主人公」とは、デカルトにおける「魂」である精神的人間の要素のことだと思われます。「人に騙されるな!」とは、精神的人間の要素が物質的人間の要素に騙されるな!という警告であったのです。理性が物質的人間の本能的な欲求などにストップをかけ、自分の中で精神的人間の要素と物質的人間の要素が対立する時、私達ははじめて本当に「人間」であることを意識するのです。
物質的人間とは、肉体を持ち感情を持ち、眼や耳などの感覚器官によって日々生活している存在であるため、私達は物質的人間を自分そのものだと思い違いしがちです。物質は、時間的にも空間的にも制約され変化し死に向かうので不安の源泉ともなります。
一方、精神的人間は、自分の肉体も感情も行動も他人と同じ客観的存在として観察しているのです。自分も他人もなく広く全宇宙を眺めているので、差別もなく、妬みもなく、不安もないはずです。この精神的人間は物質ではないので観察対象とはなりません。精神的人間としての「私」には、形も姿もありません。色もなく、増えたり減ったりすることもなく、汚れたりすることもありません。全ての人に備わっていて生じることも滅することもないのです。デカルトはこれを「魂」とも「理性」とも「良識」とも呼び、師彦和尚は「主人公」と呼びました。
まとめ
デカルトは近代哲学の父とされ、産業革命など現代文明の発展の礎と見做されることが多いのですが、現代の私達は、便利さや利益などの物質的快楽に満足し、「魂」と葛藤することもなく物質的人間のまま流されるように生きている場合が多いようにも思えます。妄想でしょうか?
(初出:ぎょうせい「税」2026年1月号)






