
小学生の低学年の頃、「妖怪人間ベム」というテレビ漫画がありました。人造人間になり損ねて手の指が三本であったベム・ベラ・ベロの三人(?)が「早く人間になりたい」と願います。人間社会の中で差別されながらも、正義の為に悪と戦い続けることで「徳」を積み、人間になることを目指す物語でした。
では、そもそも人間とは何でしょうか?17世紀前半に活動し、近代哲学・近代科学の基礎を確立したとされるフランスのデカルト(「われ思う ゆえにわれあり」で有名)は、物質的な身体に理性ある魂が結合したものが人間であると考えました。実際、人間とチンパンジーのDNAはほぼ同じだそうですし、物質的要素としては、人間は類人猿と変わらないとも言えそうです。その類人猿が20万年前に突如として思考力・理性を獲得し現生人類となったわけです。そこに理性ある魂と物質的な身体との結合が生じたと考えることは自然な発想とも思えます。デカルトは、物質としての身体は動物と変わることなく、時間の流れ、因果の流れの中で生老病死する儚い存在ですが、魂は身体に依存しない存在で不滅であると考えました。この魂こそ、私達の思考力であり理性であって人間としての本質だと捉えたようです。
「人間」とは

20世紀前半に活動し「幸福論」で有名なフランスの哲学者アランも、人間は肉体と魂が結合したものと考えた上で、魂とは肉体を拒絶するなにかであると定義しています。食欲などの本能をはじめ、我欲に類するものは肉体に由来します。我欲を拒絶する力を有しないものは狂人であり、人間とは言えないと考えたようです。震えているときに逃げるのを拒絶するなにか、いら立っているときに殴るのを拒絶するなにか、渇いているときに飲むのを拒絶するなにか、眼が欲しているときに食べるのを拒絶するなにか、身体が疲弊したとき、諦めるのを拒絶し踏ん張るなにか。これらの拒絶は聖なるもので、魂が命じる人間の営為だと考えたようです。身体の言いなりになるのではなく、そこに魂による拒絶を意識するとき、私達は人間であることを意識するようです。物質としての身体も決して独立して存在するものではなく、空気に接し、太陽光を浴び、食物を流し込むことからも万物と結びついていると考えました。そして思考は宇宙のエネルギーに由来し、宇宙に憩うものだとしました。

20世紀に活動した我が国の最高の知性の一人と目される小林秀雄は、物質としての身体だけでなく、精神的な人間の要素を重んじた人でありました。生きている人間というものは、どうも仕方のない存在だと考えました。何を考えるのか、何を言い出すのか、何を仕出かすのか、自分でも判然としない動物的存在だからです。外界の刺激のままに右往左往しながら存在する人間ですが、それが本当の姿なのでしょうか。動物的存在としての人生は時間とともに過ぎていくのですが(無常)、過ぎていく動物的存在に、過ぎていくものを果たして知り得るのでしょうか。諸行無常のままに過ぎていく動物的存在を眺めている永遠の精神的な存在があるのではないでしょうか。現代人はわからなくなっていますが、現世の無常と信仰の永遠を聊かも疑わなかった時代こそ、健全であると小林秀雄は評価するのです。永遠の精神的存在が本当の自分であることを固く信じて、余計なことを考えず、都合の悪い外部環境をも在るがままの環境であることを受け止めて、乗り越えていく。そのような日々の繰り返しの中で、私達は、必然としての人生を味わい、運命への愛を獲得していくのではないか、と考えたようです。そうしていくことで、見失っていた永遠の精神的存在であることに気付けば、それが本当の人間であるということになるのでしょうか。「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物」であるという考えを小林秀雄は披露します。
であれば、私達も移り変わる日々の暮らしを永遠の視点から静かに眺め、一刻も早く人間となることで、自分の運命を受け止め愛することができるのだ、と云うことになりそうですね。
まとめ
妖怪人間ベムでなくとも、動物的存在としての身体の要求を拒絶する魂の存在を確認しながら、自分の中で天使と悪魔の戦いを繰り広げ、悪魔に勝って、人間になること。このテーマこそが私達一人一人が生きる、ということかもしれません。
(初出:ぎょうせい「税」2月号、2026年2月号)






