
死に臨んで宮本武蔵が記した「独行道」の中に、「我事に於いて後悔せず」という言葉があります。この「我事」を「我れ事に於いて」と読むか、「我が事に於いて」と読むかで、少しニュアンスが異なります。
「我れ事に於いて後悔せず」となると、自分は後悔することのないように生きてきた、という感じになります。一方、「我が事に於いて後悔せず」となると、自分の生きてきた道筋に何であろうと後悔することはない、という感じになります。独行道の他の項目で、「物事にすき好みなし」とか「いずれの道にも別れを悲しまず」などと記した武蔵は、人生における物事を全てそのままに受け止め、何事にも執着せず、今を生きてきたものと思われますので、「我が事」と読む方が相応しいと思います。後悔するとは、「もっと良い生き方があったのではないか」と自分の人生を自己批判することです。後悔は言葉による頭の体操に過ぎません。
言葉に頼って物事を解釈していては、既に定義づけられた既知の出来事にしか対応できません。私達は目の前の存在に対して、都合よくバラバラにし、それらを言葉により名前と定義を付与することでわかったような気になっているのかもしれません。六十余回にわたる決闘を生き延びてきた武蔵は、「五輪書」の中で、「兵法至極にして勝つにはあらず。おのずから道の器用ありて、天理を離れざる故か。」と述べています。武蔵は「器用」だから勝ってきたと言います。兵法の理論を知っていたとしても、それが「器用」と一体となって行為として現れなければ、勝負に勝つことはできません。武蔵の人生は、このような「行為」の積み重ねであったので、理屈で後悔できるようなものではなかったと思われます。
「五感」とは

眼や耳などの五感と言葉を組み合わせて私達は生きています。武蔵は「五輪書」の中で、「観の目強く、見の目弱く」と述べています。「見の目」とは普通の眼の使い方で、相手の姿を見て、どんな体格でどんな刀を持ち、どんな動き方をするだろうといった言葉によって相手を分析することを指すのでしょう。相手の映像が眼に映り、それを脳で分析するには、一定の時間を要するでしょうし、眼が映像化する際に私達の癖が反映される恐れがあります。私達は先入観によって見たいものだけを見る傾向があります。それでは、勝負には間に合わないでしょう。そこで武蔵は「観の目強く」というのです。浮遊する素粒子の集合体として相手の存在を実態そのまま感じることかもしれません。将に切り掛からんとする相手の心の動きや刀の初動の起こりすら、素粒子の集合体に微かな変化を齎すでしょうから、こちらが先に仕掛けることが可能となったのではないでしょうか。理屈では勝てない、行為によってのみ勝ち残って来た武蔵の実感だったのだと思います。
まとめ
さて、私達は、家族や友人、国家の政策、あるいは世界経済の行方、さらには天候や自然災害、宇宙の天体の相互関係など、さまざまな外部関係の流れの中で生きており、人生のことは全て必然的に生起するようにも思えます。しかし、一刻一刻と判断しながら生きている私達は、けっして外的必然の中で機械的に存在しているだけではありません。一方、私達はその自由な判断のままに生きられるわけでもありません。
外的必然のままでもなく、自由な意志のままでもない。私達は実に中途半端な存在ですが、外的必然と自由な意志の綱引きの中で、今今今を生きるのが私達です。外的必然の歴史的流れの中で、私達の意志を表現する方法は具体的な行為でしかありません。私達は行為することの大切さを改めて思い起こすべきかもしれません。
私の人生を振り返った時、過去の後悔や将来への不安などから行為なき逡巡、行為なき悩みが多すぎたように思えます。行為の前に逡巡するので、執着も大きくなり、迷いも増してくるように思います。行為し始めると、そこには「今」しかありません。
行為とは、精神が身体を支配することですから、よりよく行為するには、己の身体に打ち勝つ必要があります。古来より修行と呼ばれてきた生き方こそ、私達から後悔と不安を取り除き、平穏な毎日を約束してくれるものなのかもしれません。
(初出:(株)ぎょうせい2026年4月号)






