
「常識」とは、意外に新しい言葉で、明治時代に「コモン・センス」の訳語として登場したようです。
「コモン・センス」と言えば、アメリカ独立宣言の基となったトマス・ペインの同名の小冊子が有名です。そこでは、人為をもってしては覆すことのできない自然の一原理から考えを述べたとされます。明らかな事実の上に、誰の心にも備わっている健全な理性と感情に訴えれば、自然と結論は得られるはずだ、という趣旨で「コモン・センス」と命名されたようです。
「コモン・センス」とは、知識や理論ではなく、全ての人に予め備わっているはずの精神の能力を指すようです。皆が予め有している能力が適切に発揮されれば、常に同じ結論に達するはずだ、といった趣旨で「常識」という訳語が充てられたのでしょう。
ただ、現状では、「常識」という日本語は私達の精神の生来の能力を指すというよりも、当たり前の結論だ、と当事者が主張する場合に使われることが多く、「常識」という精神の能力を健全に使う方法や意義について問われることが少ないように感じます。実際、「常識」という精神の能力を正しく使うことは、困難なことなのです。
「常識」とは

私達は、生まれた後、様々な経験をし、知識を得ます。身体を痛めた経験、胸に嫌な感じが残る経験、更には、自分にとって損か、得かという判断が脳内に積み重なっていくことによって、私達は経験・知識の蓄積の反射作用によって毎日を過ごしがちになります。「常識」という精神の能力が私達の身体を使うのではなく、身体に蓄積されたデータの反射作用としての感覚、感情、欲望に精神の方が動かされてしまうようです。その結果、常識の働きによって皆が納得して過ごすのではなく、「これが常識だ」として互いに異なる意見を有して争いが起こるという現象も頻発します。
トマス・ペインが言ったように、常識が「人為をもってしては覆すことのできない自然の原理」に由来する精神の能力であるならば、皆が常識の働きに努めながら生きることで、皆の存在・行動は調和するはずです。それは宇宙の調和の一つであるはずですから。
常識という精神の能力は誰にでも同じように働くはずなので、常識の結論には本来、主語がないはずです。Aさんの常識とBさんの常識で結論が異なることはないはずです。常識が健全に働けば、このように思う、このように感じるという誰にとっても同じ動詞だけがあるはずなのです。
常識の働きを確認するためには、自分の判断が独り善がりなものではないこと、欲得や過去の個人的な経験の結果に引き摺られていないことなどについて、常に自問反省を繰り返さなくてはならないものと思われます。怒りや怖れ、悲しみといった感情の波の中で、どうしても常識の働きの存在は見落とされがちになります。
本を読んでも答えはなく、人に尋ねても正解はありません。一つ一つの判断について、身体に残された知識・経験の反射作用ではなく、自発的に精神の作用として行われたものであるのかを繰り返し問うていくことは、まさに修行と言えるのではないでしょうか。
ただ、他人とは違うとか、他人より優れているとか、いわゆる「個性」が重んじられ、承認欲求が高まっている現代においては、常識という能力が皆に共通の精神の働きとして同様の結論に達することを期待するのは益々困難なことのように思えます。まず、私達が今、この瞬間にも宇宙の一部分として存在していることに思いを致し、皆が予め有している精神の能力としての「常識」が常に働いていることを固く信じなければならないでしょう。生まれてから自分なりに知識や経験を積み重ねてきた私達は、身体的蓄積の反射作用としての我欲と、常識の働きによる皆と調和する判断とが常に相反しながら闘っている存在であることを忘れてはなりません。
まとめ
世の中の喧騒の中にあっても、孤独の空間を確保し、我欲と常識との闘いに着目するゆとりが私達には求められているように思います。他人を責める前に、まず自分の身体と精神との闘いに着目することが大切です。怒りは消えるかもしれません。怖れや悲しみも過去の記憶に由来する妄想かもしれません。
古来、悟りが求められ、中庸が説かれ、良心に立ち返ることが唱えられてきました。「常識」は明治時代に生まれた新しい言葉ですが、「常識」という精神の働きこそ、私達が絶え間なく理想の人生を求めてきた原動力であり、それは、今も、これからも、心の奥底から私達を突き動かしてゆくエネルギーなのです。
(初出:(株)ぎょうせい月刊「税」5月号)






