
肉体や物などは、目に見える存在で把握が容易です。ただ、目に見える存在の背後には目に見えない原理やエネルギーが働いているはずだとして、古来より探求されてきました。アリストテレスも、この原理追及のことを「第一哲学」と位置付けました。
我が国では、「第一哲学」に「形而上学」との訳語が当てはめられました。これは、中国の古典「易経」の中の「形而上なる者これを道といい、形而下なる者これを器という」から採られたものです。形而上、すなわち目に見えぬ原理がエネルギーとして働いており、形而下、すなわち目に見える物質は道具だ、といった感じですね。
形而下の物質は目や耳などの感覚器官で把握しますが、形而上の原理やエネルギーは直観で把握することになります。剣豪宮本武蔵は、その著「五輪書」の中で、目を使う普通の視覚による捉え方を「見の目」といい、直観による把握を「観の目」とし、「見の目弱く観の目強く」と教えています。
生後間もない時の高熱で視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーも「この世で最高であり、そして最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることさえできない。それは心で感じなければならないものだ。」と述べています。
一つの小宇宙とも言える人間も、目に見えぬ「魂」と目に見える物質である「肉体」から構成されることは、当然のことと考えられてきました。肉体の動作と同様、私達は感情の動きも観察することができます。怒りや悲しみなどの感情も、過去の経験の記憶に照らして反射的に起こる肉体の現象であると考えられました。この「観察」という働きこそ、私達の意識の働きであり「魂」の存在を確信することができたのです。この「観察する者」こそ「われ」であると喝破したのが、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトであり、近代哲学・科学の父であるとされるのです。そして、この「われ」こそ、禅仏教に言う「本来の自分」であり、肉体に由来する様々な本能や感情を観察し我欲をコントロールしていくように「本来の自分」の働きを取り戻すことが修行なのでした。
ところが、20世紀にいると、イギリスの数学者であり哲学者であるバートランド・ラッセルは、「人間は霊魂と肉体で出来ている」というかつて当たり前のこととして皆が知っていたことがわからなくなってきていると指摘します。唯物論的な性質を持つ科学の影響によってです。
肉体と魂の境界線。現代物理学(素粒子)が明かす「人間」という現象

現代人は、直観の力を非科学的だと見做すようになり魂を信じることができなくなったのです。一方、物質を細分化し分析していくという科学の方法論では、取り扱うテータ量は増大し、人間の脳はコンピュータに依存するようになります。さらに近年進展著しいAIが人間の仕事を奪うのではないか、との懸念も現実化しています。
ところが、「物」を対象とする現代物理学は新たな地平を切り拓きつつあるようにも思えるのです。全ての物質は素粒子というこれ以上細分化できない粒子が、プラスとマイナスの引き合う力によって一時的に集まっているに過ぎないことを明らかにしつつあるようです。
素粒子を繋ぎ合わせて人間という現象を維持している力は何でしょうか。DNAは設計図に過ぎないので、肉体の形状を維持するエネルギーは別途存在するはずです。このエネルギーはエントロピー増大の法則の支配下にあり、我々の肉体を構成する素粒子はやがて拡散し消滅します(肉体の死)。一方魂に関しても、目に見えない意識の働きの根拠を脳の中には見つけられていないようであり、肉体とは別途存在するエネルギーかもしれません。
まとめ
中国の古典「老子」の中に「聖人は、腹を為して目を為さず」という教えがあります。鮮やかな色彩や美しい音楽、ご馳走や楽しいイベント、得難い貴重品などの「形而下なる者」を私達は目や耳など五感を使って把握します。しかし、これら外面的なものに私達は振り回されて直観の力を弱めているのです。このため「老子」は外面的なものに目を向けず、腹式呼吸を通じて意識を深める鍛錬を奨めたのです。古来、坐禅、ヨーガや武道において呼吸の鍛錬が強調されることと無関係ではないと思われます。
意識のエネルギーとしての魂は、有限な肉体という場で修行しているのかもしれません。果たして私達の魂は、有限な肉体が存在している間に、ヘレン・ケラーの言う「目に見えない最高のもの」を感じることができるでしょうか?
(初出:ぎょうせい「税」2026年7月号)






