
京都に住んでいた頃、時折り、龍安寺の方丈庭園に伺いました。白砂の中に15個の石だけが配置された、枯山水の代表的な庭園です。
砂で刻まれた砂紋は水の流れを、置かれた石は島や山を代替して表現していると捉えていました。しかし、このように目に見えるものを分析してその意味を解釈しようとするアプローチは誤りであったようです。
宮本武蔵の五輪書「地の巻」に示された修行の9つのポイントの中に「第七に、目に見えぬ所をさとって知る事」という教えがあります。
龍安寺の石庭の砂紋は、単に水の流れの景色をデフォルメしたものではなかったようです。水の流れはH2O分子の単なる集まりではなく、風や月の引力など目に見えぬ宇宙のエネルギーによって流動しているのです。砂紋による流れの表現は、あえて水そのものの姿を消すことで、目に見えないエネルギーの流れを感じやすくする工夫であったのかもしれません。
「写生」という言葉があります。今まで、絵画におけるスケッチやデッサンのことだと思っていました。しかし、「写生」とは、「生(いのち)を写す」ということですよね。単に、物質としての外見を真似るということではなく、その物質を形作り変化させ続けている宇宙の根源的なエネルギーを感じ取り、それを表現しようとする努力だったようです。
小林秀雄によれば、「(写生の)伝統をだんだん辿って行くと、宋の画論につき当る。つまり禅の観法につき当る」そうです。
禅では、「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」として、徹底した自己観察を行う中で「不立文字」が強調されます。言葉の危険性が強調されるのです。言葉というのは、人間が理解しやすいように世界や自然を適当に区分けして定義を付していったものです。あるがままの自然を適宜分析して言葉で表現する中で、良いとか悪いとかの価値判断も行われるようになってきました。
ただ、言葉で理解しようとする限り、あるがままの自然や世界に向き合うことは難しくなります。「目に見えぬ所をさとって知る」ためには、言葉に頼らず、直観を働かせるしかありません。「山水は外部に存するのではなく、山水は胸中にある」という確信が水墨画を生んだようです。私達は水墨画を現実から遊離した抽象画のように捉えがちですが、宇宙のエネルギーの流れを直観したありのままの姿であるようなのです。
人生を「写生」する。思い込みや世間の物差しを一つずつ手放す作業

さて、「写生」とは絵画だけでなく、俳句や様々な表現の世界に共通することのようです。とすれば、人生を写生することもできるのではないでしょうか。私の人生を顧みても、様々な良いこと、悪いことの連続として浮かび上がり、次々と後悔が湧き上がってきます。ただ、それらの解釈(?)は真実なのか?あるがままの人生なのか?私の人生の営みも、私という身体を形作り常に変化させている何らかの生命エネルギーの流れが織りなす文様なのかもしれません。私の言葉を用いた解釈を剥ぎ取り、私に関わる生命エネルギーの流れを砂紋のごとく直観することができれば、人生も「写生」することができるのではないでしょうか。
人生を写生するということは、当時自分を苦しめていた考え方、価値観など、言葉が作り上げていた枠を一つずつ外していく作業に他なりません。あるがままの現実を様々に限定しているのは、既成概念であり、思い込みであり、世間であり、言葉の作った世界ではないかと思われます。言葉の作り上げた枠を外していく作業の先には、あるがままの世界が現れるのかもしれません。この宇宙の中で、大きな一つのエネルギーによって存在している私と世界の一体感こそ、あるがままの世界ではないでしょうか。
まとめ
雪舟の水墨画、武蔵の五輪書、西行の和歌といった遺産は、先人が直観したものを何とか表現しようとしたものなのです。これら先人の遺産の上で、私達が心を耕していくプロセスこそが文化なのではないでしょうか。文化という言葉は、Cultureの翻訳だそうですが、Cultureの語源は「耕す」だそうです。先人の遺産の土壌によって私達も人生を再び耕してみることには大きな意義があると思われます。
さて、言葉で表現することはできず、水墨画での表現も難しそうですが、あなたの人生の砂紋を感じることができますか。
(初出:(株)ぎょうせい月刊「税」2026年8月号)






