
「ありがとう」という感謝の機会が多いほど、私達は幸福であると教えられてきました。
「ありがとう」の語源「有り難し」はめったにない出来事に対して喜びや驚きを伴う言葉のようです。
特に、近代以降では他者からの好意に対する感謝の表現として用いられています。この場合、客観的に「他者からの好意」が希少であるかよりも、受け手が「有難いこと」と感じるのかという主観的な要因が大きいようです。
感謝の機会が専ら「他者からの好意」の有無だけに依存してしまうと、何か、自分の幸福感を他人に左右されるような感じになりますが、社交辞令で「ありがとう」を連発しても本来の幸福とは異なるように思えます。
思い返せば、他人との人間関係だけでなく、私達の健康状態をはじめ、山や川の自然など、この世のあらゆるものは刻一刻と移り変わっているのでした。「他者からの好意」に限らず、今現在のあらゆる現象が「有り難い」ことなのです。問題は、様々な「有り難いこと」に気付き、喜び驚く感受性を私達が有しているかどうか、ではないでしょうか。
朝日の暖かさ、そよ風の優しさ、立ち込める雲の雄大さなど、私達は「有り難いこと」に囲まれています。そこに、喜びと驚きを感じることができれば私達は幸せなのです。
本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と歌っています。
これは、山桜の花に朝日が射した時に受けた圧倒的な感覚を示しています。私達は言葉で書かれた先人の教えを学んでしまうと、視覚や聴覚や触覚などの感覚器官の反応を言葉で現して分析していくという方法を取りがちです。恐らくそれは脳が創った後付けの物語に過ぎないのです。儒教など、中国伝来の様々な理論的知識に染まる以前に、私達日本人は、言葉以前の圧倒的な直観力を有していることを「大和心」と示されたのでしょう。
計算せず、比較せず、日々の暮らしの中に驚きを直観すること。それが私達の本来の姿であり、幸せへの道ではないでしょうか。
(初出:(株)ぎょうせい月刊「税」2026年8月号)


